君へ

己(おれ)がこのようなことを考えるに至ったのは、己が人間として死にたいと思ったからである。

居場所を失くし、浜に繋いであった小舟を盗んで逃げたが、陸おかで暮らす人間が思うよりもずっと、海に流されるというのは絶命的な事態だった。嵐に遭うまでもなく操縦を失った己は枯葉のように流されこの一畳半ほどの岩礁へ運ばれてきた。小舟は己を運んできた時に空いた穴の方から水に浸かり、沈んでいってしまった。この辺りには幾つもの暗礁があるのだろう。

最初の夜は眠れなかった。凹凸に手足を這わすことで何とか横にはなったが、この寝床には枕元というものがなかった。一つか二つ寝返りを打てば暗い海へ転がり込んでしまう恐怖に怯え乍ら岩肌にしがみついていた。夢の中で何度も何度も溺れ、その度その度に目を覚ました。辺りは真っ暗だから自分が本当に目を覚ましたのかも、今生きているのか死んでいるのかも分からぬまま最初の夜を明かした。己が本当に眠ったのは夜が明けてからのことだった。水平線が白く赤く色づいていく様が美しかった。

日中は太陽と水面からの照り返しがある。とても立っていられないので服を被って丸くなっていた。夕方頃、魚の死骸の流れ着いていることに気がつき、拾い上げて歯を立てた。背鰭の鋭い茶色い魚だった。鱗はとても食べられなかったので、腹の方から少しずつ噛み割いて血と肉を啜った。何十時間か振りに形のあるものを口にして便意を催し、ここへ来て初めて排泄した。日差しから隠しきれなかった手や足の甲がひりひりと痛んだ。

二日目の夜、岩礁の南側に海坊主が現れた。また夢をみているのだろうか。大きさも形も不揃いな頭が幾つも突き出してきて、此方を睨んでいるかのようにじつとしている。目を瞑り耳を塞いで夜が明けるのを待っている間に眠ってしまった。明るくなってからみると海坊主たちはいなくなっていた。

三日目は殊に晴れた日だった。遠くの方で魚が跳ねて飛沫が上がった。鯔だろうか。己の力が尽きて海に落ちたなら、彼らは己の肉に群がってくるのだろう。死んだ魚を食べた己が死に、魚に食われる。そのことが恐ろしく、同時に自然の摂理であると身に染みるようでもあった。

日が暮れ、明るい月が出た。銀の光に照らされた海面をみて、己は海坊主の海坊主でなかったことを知った。黒黒とした幾つもの頭にみえたものは岩礁だった。日中海面の下に隠れていた大小様々の暗礁が潮の干いたために顔を出してきていたのだ。

この岩礁を手がかりに海を渡っていけば、ひょっとしたら岸まで辿り着くことが出来るかもしれない。ふとそんなことを思いついた。根拠は無かった。岩礁の先は海の中に沈んでいるのかもしれない。しかしこのままここに居てもあと三日と持たないだろう。この期に及んで、否(いや)、死を間近にみた今だからこそ、その時は布団の上で家族と共にありたいと思った。景色はどこまでも昏い。打ち付ける波だけがきらきらと白い光を放っては細り消えていく。手足の動くうちに。海坊主が顔を覗かせているうちに。己は底のみえない海へと腰を浸けた。

いつかこの場所に誰かがまた流されてくることがあるだろうか。己と同じように蹲り、海坊主をみるだろうか。

君へ。己は行く。夜の海は心細い。君の健闘を祈っている。