よく溶ける公証役場【フレーズプラス小説】

 「本職は遺言者栗山忠吉の嘱託により、田畑宇利之助、日向葵の立ち合いのうえ、左の遺言の趣旨の口授を筆記しこの証書を作成する」

 日の下市公証役場から来たと名乗る田畑という男は、手にした書面を滔々と読み上げ、呆気にとられる一同を後目に早々と引き上げていった。

 栗山家当主忠吉が大往生を遂げてから数日、家族内での葬儀も済んだ頃現れた使者によって伝えられた故人の遺志は、栗山家に大混乱を巻き起こした。

 遺言書はこう続けられていた。

 

  一、 遺言者は、遺言者が所有する一切の財産を菊川県日の下市川上三丁目五番六号 楢川美穂に相続させる。

  二、 この遺言の執行者として菊川県日の下市川中一丁目二番五号 日の下公証役場を指定する。

  遺言者 栗山忠吉

  傘宝十三年六月二十八日生

 

 遺言書にある楢川美穂というのは晩年の忠吉翁を看病し、故人より大層な信任を得ていたという市内在住の女学生である。

 これに猛烈な抗議の声をあげたのが栗山本家、特に忠吉の長女榮子と、長男葉太郎の妻敦子であった。

 「どこの誰とも知れない女に財産を明け渡してしまわれるなんて、お義父さまのお考えがわからないわ」

 と、敦子が溢せば、

 「そうよ、大体私たち家族を遠ざけておきながら若い娘に入れあげて家財を余所へ持ち出すなんて栗山のご先祖様にも申し訳が立たないわ」

 と、眉をつり上げる。普段は栗山家の主導権を巡って鎬を削る間柄にある両名だが、家そのものが存亡の危機とあって手を結ぶことにしたらしい。

 「大体、長男のあなたがしっかりしていないからいけないのよ。お義父さまから引き継いだお仕事を維持するのがやっとで碌に家のことに関わってこなかったあなたの甲斐性がないから家の中に悪い虫が入り込んでくるのよ」

 矛先を向けられた葉太郎は縮みあがり、

 「いや、しかし、家のことはお前たちに任せていたわけだから……」

 などと口走ったものだから火に油、さらなる集中砲火を浴びる羽目になってしまう。

 県外の大学に通う三男の平吉は溜息をついた。身内でこんなやり合いを繰り返したところで何にもならない。因みに次男の正造は葬儀を終えるや、仕事があるからと帰ってしまった。

 「いつまでも水かけあっていても仕方ないじゃないか。どうだろう。ここはひとつ、遺言書の正当性を確かめに行ってみないか」

 「確かめると言っても、一体どうするのよ」

 「田畑さんは公証役場から来たんだろう。ならばこれから公証役場に出向いて、どういう経緯で遺言書が残されたのか、それから美穂さん側の意思も確認しておかないと。あちらさんに相続の意思がないとなれば、話も変わってくるんじゃないかな」

 年齢の割に落ち着いたところのある青年の提言に従い、一同はぞろぞろと田畑に聞いた住所へと向かった。季節は初春。正午の陽ざしに照らされた雪解け水が道の端に川を作っている。

 「このあたりのはずだが」

 平吉は辺りを見回す。と、視線の先に先頃見た背中を捉えた。

 「田畑さん」

 平吉が声をかけ近寄ると、田畑は少し驚いたように目を瞬かせながら振り返った。

 「ああ、栗山忠吉様のご家族の方ですか」

 「どうかされたんですか」

 「それが……」

 「ちょっと、田畑さん、でしたか?公証役場というのはどこにあるのかしら」

 敦子が田畑に詰め寄る。田畑の方はというと、栗山本家で遺言書を読み上げた時の怜悧さは影を潜め、あちこちと忙しなく飛ばされる視線からは困惑と焦燥が見て取れる。はっきり云って挙動不審である。平吉が事情を問おうとすると、

 「田畑さん?あなた公証役場から来たと仰っていましたけれど、それって本当のことですの?」

 田畑の態度に不信を募らせた榮子が口を開いた。

 「貴方が本当に公証役場からいらっしゃったのなら、私たちをその場所まで案内してくださらない?」

 「いえ、それがですね……」

 「出来ないと仰るの?それならそれで私たちと同行していただくことになるわ。貴方が公証役場の方でないとなると、田畑某なる男の身元、ひいては遺言書の効力そのものを疑わないといけなくなりますから」

 「いえ、私は確かに田畑です。日の下市公証役場に勤めを持つ田畑宇利之助なのです。なのですが……」

 「でしたら速やかに役場まで案内してくださるかしら」

 「それが、出来ないのです」

 「どうして」

 「役場が……」

 「役場が?」

 

 「日の下市公証役場が消えてしまったんです!」

 

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 長い冬の間、昼夜を問わず降り続く雪に覆われる菊川県日の下市。冬の間に作られたかまくらは、春の日差しにその形をすり減らし、やがて近隣住人たちの手によって崩され、手近の川や排水溝へ掃きだされる。

 リスたちにとって重要な財産であるどんぐりや、重要な文言が書きつけられた木の葉などが保管されたかまくら、通称公証役場は、毎年訪れる春の日差しと共に溶け、崩され、スコップで掬われて裏の川へ流されてしまったのだ。