自ら発熱する中庭(下)【フレーズプラス小説】

 はじめはこの往復も大きな苦にはならなかった。腕に疲れこそ溜まっていたものの、日常の空白を忘れ、ひたすら体を動かす単純な作業が錆びついた頭に快かったが、そこは限りある人の身。もとより私は飽きっぽいのだ。直に嫌気がさしてきた。賽の河原で石を積み続ける幼子の霊か、はたまた西方の果てで天空を支え続けるアトラスか。耐えられそうにない。そんな責め苦は。

そもそもこの炎は他の場所へ燃え広がっていくのだろうか。私はバケツを脇へ下ろし、しばらくの間みえない炎を観察してみることにした。

 焼けた草が描く同心円は『庭』の中央からはじまり、少しずつその輪を広げていく。やがて入口に立つ私に届く少し前で止まった。どうやら放っておいても辺りへ燃え広がる心配はなさそうだ。私はひとまず胸をなでおろした。

 しかし依然として、この空間が高熱に支配されていることに変わりはない。私の妄想がこの地獄を召喚したというのならば、この火を鎮めることもまた、私の役割なのだ。

 だがこの熱は一体どうしたものだろうか。この世の炎ではないから水をかけても消えない。おそらくあの世では永久に燃え続ける不思議な土地があって、偶然その土地とこの空間とが不規則に重なった結果このような事態が生じているのではないか。そんな気がする。

 あの世の炎を消す方法。このみえない炎が魂だけを焼くというのならば、魂を流す水のようなものがあればこの火を消すことが出来るだろうか。しかし今燃えている火を消すことが出来たとしても、あの世の熱が再びこちらへ吹き込んでくるまでにそう時間はかからないだろう。やはりここはあの世との重なりをなくしてしまうべきだろう。思い出してみよう。私が地獄を召喚した時、一体何を思い、何をみていたのかを。

 あの時私は、この世とあの世とを重ね合わせてみていた。境界を彷徨っていた魂が、橋をみたことによって急にこの世に引き戻されてしまったためにあの世の色が残ってしまったのかもしれない。ならば次はゆっくりと。既にこの空間ではあの世とこの世が重なり合っている。少しずつ、そして確実に、底釣りの糸を手繰るように。この世のイメージ。橋をみて高校生の時を思い出したように。この場所から連想される、この世の場所。

 乳白色の壁紙と白木のフローリングに囲まれた六畳ほどの空間。小学生の頃から使っていて、前板が一か所外れてしまっている学習机。入口の対角には本棚と、そこに収まらなかった大小の書籍が積んである。ここは。私の部屋だ。背の高い木で覆い隠されるようにして存在するこの空間が、私に生家の自室を思い出させた。ドアを開けて廊下に出てみると、肉が焼ける音と醤油の匂い。廊下と居間を隔てる扉の向こうからは、母と弟が会話する声が聴こえてくる。肉を炒める音が止んだ。ああ、きっともうすぐあの扉が開かれ、前掛けを外しながら母は言うのだろう。「ご飯できたよ」と。

 あの家を、あの部屋を離れていた時間といえば、せいぜい半日程度。このくらいの外出は小学生の頃でも珍しいことではなかった。それなのにこれほど懐かしい感じがするのはどうしてだろうか。家から遠ざかるように歩くほど、家への、家族への未練ばかりが大きく膨らんでいく。そうか私は。愛しているのだ。家を。家族を。母親を。

 草を焼く音は既に聴こえず、空へ抜け出した熱気とすれ違うように少しずつ、冬晴れの乾いた空気が下りてきた。

 『庭』をでた私は大きく伸びをする。上向いた瞳に薄水色の空が映る。ああ、空とはこんなに明るく広いものだっただろうか。視界の端を通った枯れ葉が、またどこかみえないところへと運ばれていく。あの頃よりも広い空の下を、私は歩きはじめた。

(完)