自ら発熱する中庭(上)【フレーズプラス小説】

 流れ落ちた汗が、眉間を伝い目に染みる。一月の中旬にもかかわらず、私の顔は汗に塗れていた。

 手にしたポリバケツ一杯の水を、足元へぶちまける。十キロ近い重量から解放された両腕を曲げ伸ばしし、少しでも筋肉を休ませようとする。今水をまかれたばかりの地面ははやくもその黒い染みを減らしはじめ、目に見える速さで乾いていく。熱した鉄板に水を流した時のように。しゅうしゅうと泡立ち蒸気をあげ、やがて無数の小さな泡となって消えていく。私はポリバケツを抱え、小走りで今来た道を引き返す。次の水を汲みに行かなければ。

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 人と関わるということに苦手意識のあった私は前の職場を一か月もしないうちに退職。実家に引きこもりがちになり、親との関係も徐々に緊張したものへと変わっていった。

 そしてある日喫茶店へと引き出され三時間の説教。否、あれは説教などではなかった。攻撃、口撃、威圧。萎縮、朦朧。店を出てしゃがみ込む。頭の上から母親の怒鳴る声が聴こえる。最低。自分勝手。甘えてる。よく覚えていないが、そういう意味の言葉だったと思う。

 母はしびれを切らして帰ったが、私はその場に立ち尽くしていた。二時間ほどコンクリート塀の染みと向き合っていたろうか。私はその場を離れ、家と反対の方向へと歩き出した。

 どこかへ行こうというのではなく、家へ帰りたくないという、家のある方へ行きたくないという気持ちでもって私の足は動いていた。世界中のどこへでも向かっている。家以外の、どこへでも。

 通勤に使っていた在来線に沿うように国道を北へ向かった。気ままに、気まぐれに、小路を折れながら畑を通り過ぎ、住宅地を進んでいく。野焼き後の煙く乾いた空気が鼻の奥で懐かしい心象に結び付いたような気がしたが、やがてそのイメージも冬の空気に混じってどこかへ吹かれ、見えなくなってしまう。変わってゆくもの、変わらないもの。風が思い出を運び、また連れ去っていくというのなら、あの風に追いつくことが出来れば昔の自分に会うことが出来るだろうか。視界を過り、どこか知らない処へ運ばれていくあの落ち葉を、もしつかまえることが出来たなら。

 川に行き当たった私は上流へ向けて堤防を進むことにした。普段人の立ち入らない場所なのだろう。冬色の枯れ草が脛にかかるが、一応砂利は敷いてあるらしく先へ進むことが出来た。上流へ向かうにつれ道は細くなり、視界に入る民家も少なくなっていく。足元の流れはどこまで続いているのだろうか。否、どこから続いてきたのだろうか、と云うべきか。こんなふうに知らない寂しい場所でどこへ向かっているとも判らずいると、まるであの世とこの世の境にあるという黄泉比良坂を下り歩いているような気持ちになる。目下に見下ろす川に魚を見つけることは出来ないし、道の両側を飾る草木は伸ばす芽を持たずただ風に揺れているだけのようで、いかにもこの世のものらしくない。今踏んでいる土は重機で積み上げた堤の上に敷かれたものだし、ちらほらとではあるが民家もみえるこの場所をあの世と形容したくなるのは我ながら不思議な気持ちがする。私は孤独を感じていた。人の手が入ったこの場所で。人の営みのすぐ目の前で。孤独はいつも場所ではなく人に寄り添っている。町はずれの川岸で。都会の雑踏の中で。自分の部屋の中で。

 ふと見おぼえのある橋が目に入った。あの橋は、もしかして。そう思った私は堤防から道路へ出てみる。やはりそこは高校生の私が通学路としていた道だった。自分の住んでいる町であっても知らない場所というのは結構ある。何度も通っていた商店街の脇に薄暗い路地があるということを、入口脇の建物が取り壊されてはじめて知ったことがある。路地を抜けると向かいに大きな工場の背中がみえて、その背中に沿うように畦道が敷かれていた。朝晩歩き慣れた道の一つ向こう側にある寂れた空間が別世界のように感じられたことを思い出す。あの世へ続くかに思えた道も、どこへつながるかわかった途端色を失ってしまった。人と生き物の営みの場であるという認識がこの世の光となって照らし、あの世の色は影となる。橋の上から返りみた堤防は、橋の上と同じこの世の色をしていた。

 その時だった。私の耳に、「しゅう」という微かな音が聴こえてきたのは。

 音を追って道を曲がった先にあったのは、公園のようにも社のようにもみえる広場だった。地面を覆う野草の向こうには小さな東屋のようなものがみえる。入口のある面を除いた三方は背の高い庭木に塞がれ、外から中の様子を伺い知ることは出来ない。妙な音が聴こえてこなければ私だって気づくことはなかっただろう。まるで民家の庭のような造りだが、ここからみえる一番近い建物でも四百メートルくらいは離れている。民家の庭というには遠すぎはしないか。音は『庭』の真ん中から聴こえていた。先ほど聴こえた「しゅうしゅう」という音の他に、何かが焦げるような「ちりちり」という音も聴こえてくる。投げ捨てられたタバコが草木に燃え移りでもしたのだろうか、とつま先でかき分けて探すが、それらしい火元は見つからない。火元が見つからないというのに、地面からは変わらず、否、先ほどまでより大きく「しゅうしゅう」という音が聴こえてくる。そして私の目の前で、『庭』の草がしおれ始めたではないか。

 音以外にも明らかな異変が生じている。暑いのだ。熱いといってもいい。身を屈めると湿った空気の層が顔に触れるのを感じる。まるで鉄板や鍋のフタをとったような蒸気が足元に立ち込めている。熱気は「庭」の地面から来ているようだ。どういうわけか、地面そのものが熱を発している。この『庭』は自ら発熱しているのだ!

 『庭』の地下に温泉でも湧いたのだろうか。しかしこんな盆地の町に突然温泉が湧くことなどあるのだろうか。見る間に草がしおれていく。否、しおれているのではない。これは。燃えている!まるで目には見えない炎で炙られているかのように黒く変色していく。目には見えない炎。生き物の、この世の魂だけを燃やし尽くす地獄の炎。ああなんということだ。この『庭』はあの世と繋がってしまったのだ。どうしてこんなことが起こったのだろう。私があの世とこの世の境をみてしまったからだろうか。この世の光に照らされ行き場を失ったあの世の色の切れ端がこの『庭』に飛ばされてきてしまったのだろうか。だとすれば私が食い止めねばならない。この地獄を。

 辺りを見回した私は東屋の側にポリバケツがあるのを認め、これを掴んで先ほどの橋まで戻り川の水をバケツ一杯に汲んで戻ってきた。既に焼け野原と化している『庭』の中央に水を浴びせると「じゃわっ」という音と共に蒸気が吹き出し、足元に立ち込める。あの世の炎を鎮めるにも水は役立つらしい、と安心したのも束の間、水たまりはどんどんとその形を小さくし消えていく。地面に浸み込んでいるのではなく、高温によって蒸発しているのだ。慌ててまた橋まで戻り、バケツ一杯の水を汲んでくる。バケツの中の水を全て『庭』へ撒くとしばらく火の勢いは弱まるが、水の魂を燃やし尽くすとまたすぐに燃えはじめる。まるでキリがなかったが、それでもこれは私がしでかしたことと思い、何度も何度もバケツに水を満たして『庭』へと運んだ。

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 (続く)