物差し突貫工事【フレーズプラス小説】

 「みなさん、物差しは持ってきましたか」

 担任の宮下女史の一言に、同級生たちが元気よく返事をする。その声を聴くこの僕の顔は、暗く沈んでいた。

 この僕、田中はじめはクラス委員も務める優等生だ。そんな僕がまさか物差しを忘れてしまうなんて。

 クラス委員たる僕が忘れものをしたとあってはクラス全体の士気に関わる。なんとしても隠し通さなくてはならない。問題は既に授業が始まってしまっているということ。授業で使うのだから当然同じクラスの子に借りることはできないし、始業の鐘が鳴ってしまってからではこっそりとなりのクラスへ借りにいくこともできない。かくなるうえはーーーー作るしかない。自分で。

 宮下女史が黒板を示しながら解説を行っている。内容理解に問題はない。なにせ僕は優等生なのだから。優等生たるこの僕が現在抱えている問題はただ一つ。授業で使う物差しを持ってくるのを忘れてしまったということ。板書のペースと教科書とを見比べる。このペースだと物差しを用いた問題演習に入るまで五分といったところか。それまでに手持ちの品で物差しに代わるものを作るのだ。

 おもむろに筆箱を開く。家で机に向かう時は布製のペンケースを愛用している僕だが、学校では鉛筆削りのついたまさに筆箱と形容するにふさわしい長方形のそれを使用している。小学校とは、自由なようでいて、とても束縛された空間だ。クラスごとに雰囲気や流行のようなものが大体定まっていて、そこから外れることは即ちクラスカーストにおける脱落、あるいは除外を意味する。二つ後ろの山田くんが使っているようなキャラクターが踊るデザインのものや、左前の滝口さんが使っているクッキーの箱みたいなスチールのペンケースはいかにも実用性に欠けるように思われるが、これもクラス内での立ち位置を保つため。僕自身クラスカーストに執着はないのだけれど、人の先に立ち導く者というのは民衆に近すぎても、離れすぎてもその力を奮えないものなのだ。だから僕は擬態する。この学校の、このクラスの優等生に。

 筆箱の中にはホルダーに刺さった鉛筆が五本。端のポケットに消しゴムが一つ。裏側にはハサミが一本。少ない。あまりにも。これだけの材料で一体どうやって物差しを作ればいいというのか。否、出来る。僕は優等生をやってきた。このクラスで。今までも。そしてこれからも!

 物差しといっても精密機器を設計したり家を建てるわけじゃない。せいぜいプリントされた図形の各辺の長さをはかって発表するとか、そんなところだろう。つまりセンチ単位まで測ることが出来ればそれでいい。まずは本体に使用するもの。これはお道具箱に入れてある自由帳の端を、ハサミで細長く切ったものを使う。優等生だもの。お絵かきだって嗜むのさ。続いては目盛り。ここが正念場。ここさえ切り抜ければクリアと云っても過言ではない。机の上に目を走らせ、サイズを想像する。

 消しゴムのスリーブ。これは五センチくらいだろうか。鉛筆。十五センチくらい。駄目だ。手持ちの消しゴムや鉛筆の長さなんて測ったことがない。ダースごとに鉛筆を箱詰めした人や消しゴムのスリーブをデザインした人なら知っているのだろうか。

 どうしよう、どうすればいい。

 と、宮下女史が教壇から離れた。手にはプリントの束。もう配り始めた!

 受け取ったプリントの束から一枚引き抜き、後ろへまわす。前の席の佐藤くんは僕の顔色に気づいただろうか。後ろの村上くんに渡ったプリントの束は僕の手汗で湿ってはいなかっただろうか。

 手元のプリントに目を落とす。プリントには四角形や三角形とともに、辺の長さを記入する空欄が設けられている。向かいの辺の長さもわからない以上、実際に測ってみるしかないが、物差しはない。代用品を作ろうにも長さのわかるものがないのにどうして物差しの代わりを作ることが出来ようか。

 恐れていた一言を、宮下女史がついに口にした。

 「この問題わかるひと」

 この僕は当然わからないひとだ。測ってないのだから。しかし僕は手を挙げねばならない。優等生だから。僕は優等生、つまりあてられ、答える機会も多い。宮下女史が他の子にも答えさせてあげようと考えれば、僕にあたることはないはずだ。

 「では、田中君」

 そりゃそうだ。自分で言ったんじゃないか。あてられる機会が多いと。ならばその機会が今日この時である可能性は、そうでない可能性よりもずっと高いのだ。ああ、宮下先生。どうかそんな期待に満ちた目で僕を見つめないでください。僕は失敗したのです。このクラスで優等生を務め、みんなの先に立ち導く使命を果たすということに。

 しかしどうだろう、今のこの気持ちは。先ほどまで孤独に抱えていた焦燥を、僕は今からクラス中に明かすことが出来るのだ。笑われるかもしれない。失望されるかもしれない。きっと僕はもうクラス委員ではいられない。他の誰が認めても、僕自身が認められない。でも、もういいんだ。僕は孤独を抜け出し、一人の生徒に戻る。この学校の。このクラスの。ただの一人の生徒に。

 窓から吹き込んだ緑色の風が「もういいんだよ」と言うように、僕のノートを閉じた。

 

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 結論から言おう。

 僕こと田中はじめは、クラス委員を続けている。僕自身がクラス委員の在り方に対して妥協したわけでも、突然ドアを蹴破って現れたテロリストが全てをうやむやにしたわけでもない。僕は優等生を演じ切ることに成功したのだ。

 あの日、風が閉じたノートの表紙をみた僕の目は、きっとグラウンドから見える大時計よりも大きく見開かれていたはずだ。

 「ノートの表紙なんてウォンバットの写真がのってたことくらいしか覚えてないよ」という君のためにクラス委員のこの僕が解説してあげよう。ノートには買った時から線が引かれている。これは僕たち生徒がまっすぐ、読みやすい字を書く手助けをしてくれるものだ。そしてそれらの線と線との間は同じ長さになるように作られていて、ノートの表紙には線と線の間の長さが書かれている。もうわかったよね。僕のノートは一センチの線が二十行のものだった。僕はノートの線を物差しの代わりにすることで、図形の辺の長さを知ることが出来たのだ。

 あの時、僕は一瞬クラス委員であることを諦めた。しかし僕はそれを恥ずかしいことだとは思わない。クラス委員とは、僕ほどの優等生であっても辛く感じることがあるほど、孤独で重い仕事だということがわかったのだから。

 これからもこの僕はクラス委員を続けていくつもりだ。みんなを支え、導くこの孤独な仕事を。

 

(おわり)